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毛利家


毛利元就 もうり もとなり (1497~1571) 毛利家
 毛利弘元の次男。「謀神」の異名をとった智将で、尼子経久宇喜多直家と並ぶ中国三大謀将のひとり。三人の息子に残した遺訓状が、のちに「三矢の訓え」の逸話になったことでも知られる。次男であったため、家を継ぐ予定はなかったが、兄・興元の急死と興元の子・幸松丸の病死を受けて家督を継ぐことになる。元就が当主となった頃の毛利家は安芸の小領主にすぎないばかりか、一部の家臣には気を使わないといけない状況であったため、時には粛清によって家中をまとめていった。家中がまとまった後も、出雲の尼子家、周防・長門の大内家との間で苦労を重ねるが、大内家臣・陶晴賢(隆房)の謀反をきっかけに齢59にして勢力拡大の賭けに出る。村上水軍を味方につけた元就は、大内家の主力2万の大軍を率いる晴賢を厳島に誘い出して奇襲を敢行。4千の兵でこれを破って晴賢を自害に追い込み、その後、わずか2年で大内家を滅ぼして、周防、長門を手に入れた。尼子家を凌ぐ勢いを手に入れた元就は、そのまま出雲にも侵攻。月山富田城に籠る尼子義久を4年にもおよぶ包囲戦の末に降伏開城させて中国地方の覇者となった。

<辞世の句>
 友を得て なおぞ嬉しき 桜花 昨日にかはる けふの色香は

<長男・隆元に宛てた書状より>
 能も芸も慰めも道たても本路たても、何もかもいらず候。ひとえひとえに武略・計略・調略かたのことまでに候。
 算多きは勝ち、算少なきは負け候と申す。兵書の言葉に候。



毛利興元 もうり おきもと (1492~1516) 毛利家

 安芸の国人領主。毛利弘元の嫡男で元就の兄。父の隠居により、わずか8歳で家督を継ぐ。その後、西国の大大名・大内義興を烏帽子親として元服、義興が京都を追われた室町幕府10代将軍・足利義稙を奉じて上洛した際には、これに従い、船岡山の戦いにも参加した。帰国後、安芸国内は尼子家と大内家の争いの場となり、周辺の国人領主らと共に難局を乗り越えようとするが、苦労も多く、次第に酒に走るようなり、25歳の若さで病没した。家督は子の幸松丸が継ぎ、その後見を弟・元就がつとめた。


毛利隆元 もうり たかもと (1623~1563) 毛利家
 毛利元就の長男。母は正室・妙玖。幼いころに大内家に人質に出され、大内義隆から「隆」の一字をもらって元服した。大内家からは厚遇を受け、重臣・陶晴賢(隆房)らとの親交を深めるだけでなく、同じ重臣である内藤興盛の娘を義隆の養女としたうえで正室に迎えている。毛利家に戻ってまもなく、元就の突然の隠居により家督を継ぐが、実権は元就が握り続けたため、当主としての影は薄い。しかし、家中での人望は元就を凌ぎ、卓越した行政手腕の持ち主だったといわれる。大内家を滅ぼし、九州の大友家と和睦を成立させたのち、元就が攻略を進めていた尼子家との戦いに合流する途中、41歳の若さで急死する。元就はひどく落胆し、謀略だと考えた元就によって、隆元の側近らが切腹に追い込まれる事件にまで発展した。


毛利輝元 もうり てるもと (1553~1625) 毛利家
 毛利隆元の長男。11歳の時に父が急死したため、祖父・元就が後見人となって家督を継いだ。第二次・月山富田城攻めで初陣を飾り、城主の尼子義久が降伏開城したため、尼子家討伐が当主になってから初めての手柄となった。元就死後は、吉川元春小早川隆景2人の叔父による、いわゆる「両川体制」に支えられ領内を統治した。織田信長の侵攻によって危機を迎えることもあったが、本能寺の変後は豊臣秀吉と誼を通じて厚遇され、豊臣政権下では五大老のひとり、120万石の大大名となった。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将になるが、大坂からは動かず、本戦には参加していない。敗北後、吉川広家の奔走により改易は免れるが、周防、長門37万石への大減封となった。


吉川元春 きっかわ もとはる (1530~1586) 毛利家
 毛利元就の次男。母は正室・妙玖。毛利輝元を支えた「毛利両川」、「毛利四人衆」のひとり。「剛の吉川」と呼ばれた毛利家随一の猛将で、生涯76度の戦で無敗を誇り、父・元就も戦にかけては元春に及ばないと言っている。安芸の有力国人・熊谷信直を毛利家の味方に引き入れるために、不美人で知れ渡っていた信直の娘・新庄局を自ら望んで娶った話が有名。完全な政略結婚であったが、夫婦円満で四男二女の子宝にも恵まれ、生涯側室も持たなかった。元就の謀略で家中が乱れていた吉川家の養子となって家督を継ぎ、厳島の戦いや山陰方面の戦いで活躍、毛利家の中国制覇に大きく貢献した。本能寺の変後は、豊臣秀吉に臣従するのを嫌い、家督を長男・元長に譲って早々に隠居してしまう。その後、秀吉や輝元の再三の要請を受けて九州征伐に参加するが、かねてよりの病が悪化して豊前小倉城で亡くなった。

<「名将言行録」毛利元就の言葉より>
 戦えばすなわち勝ち、攻めればすなわち取り、威を天下に争うことは、われ元春に及ばず



吉川元長 きっかわ もとなが (1548~1587) 毛利家

 吉川元春の嫡男。父と同様、武勇に優れていたという。第二次月山富田城の戦いで、毛利輝元と共に初陣を果たし、尼子家滅亡後は父に従って尼子家残党の討伐などで活躍した。本能寺の変後、羽柴(豊臣)秀吉との和睦に反対していた父・元春が隠居したため、家督を継いで四国征伐に従軍した。その後、九州征伐にも出陣するが、元春が病没した翌年、日向国への出陣中に病を得て亡くなった。家督は弟・広家が継いだ。


吉川広家 きっかわ ひろいえ (1561~1625) 毛利家
 吉川元春の三男。父・元春と兄・元長が九州征伐の際に相次いで亡くなったため家督を継いだ。毛利家の柱石だった叔父・小早川隆景が亡くなると主君・輝元から毛利秀元ともに新たな柱石となるよう依頼された。関ヶ原の戦いでは石田三成と親しい安国寺恵瓊と対立。輝元は恵瓊の意見を入れて西軍の総大将となってしまうが、密かに徳川家康と通じて毛利家の存続を図る。本戦では毛利家の先陣を任されるが、動かないことで毛利秀元や安国寺恵瓊の軍勢を足止めして東軍勝利に貢献し、戦後の奔走により、輝元が西軍の総大将だったにも関わらず、毛利家は改易は免れた。しかし、120万石から37万石への大減封であったため、輝元からは疎まれた。


小早川隆景 こばやかわ たかかげ (1533~1597) 毛利家
 毛利元就の三男。母は正室・妙玖。毛利輝元を支えた「毛利両川」「毛利四人衆」のひとり。「柔の小早川」と呼ばれた智将で、豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛(孝高)からも「天下の知恵者」と賞賛された。幼少の頃に、父・元就の思惑と安芸の有力国人・小早川家の要請で分家の竹原小早川家の養子となって家督を継ぎ、後に小早川正平の娘を娶って本家の沼田小早川家も継いで家を統一した。厳島の戦いでは村上水軍を味方につけ、自身も水軍を率いて勝利に貢献し、その後も山陽方面の戦いで活躍した。本能寺の変の際には吉川元春を中心とした反秀吉派の行動を抑えて大返しをする秀吉を間接的に支援したことで感謝され、毛利家が厚遇されるきっかけを作った。豊臣政権下では毛利家臣でありながら主君・輝元と共に五大老のひとりとなるが、秀吉に先立って病死した。跡は秀吉の甥で隆景の養子となった秀秋が継いでいる。


毛利元清 もうり もときよ (1551~1597) 毛利家
 毛利元就の四男。母は側室・乃美大方。主に備中での戦いで活躍し、備中兵乱(宇喜多直家と結んで三村家を滅ぼした戦い)ののち、居城となった備中猿掛城が穂田郷にあったことから穂井田姓を名乗った。毛利家が豊臣秀吉に臣従したのちは、四国征伐、九州征伐に参加。この間に子・秀元毛利輝元の養子になると毛利姓に復した。文禄の役では、病床にあった輝元に代わって毛利軍の総大将として渡海し、秀吉の要望で虎を2頭、生け捕りにして送っている。97年、小早川隆景とほぼ同時期に亡くなった。


毛利秀元 もうり ひでもと (1579~1650) 毛利家
 毛利(穂井田)元清の次男。兄が早世したため嫡子となるが、毛利輝元に実子がなかったことから養子となり、豊臣秀吉の許しを得て毛利家の世嗣となった。しかし、その後、輝元に実子・秀就が生まれたため、世嗣を辞退した。慶長の役では、輝元に代わって毛利軍の総大将として渡海した。関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将となった輝元の名代として南宮山に布陣するが、東軍に通じた吉川広家の妨害にあって動くことができず、戦わないまま敗北した。戦後、毛利家は大減封となるが、6万石を与えられて櫛崎城主となり、初代長府藩主となった。


毛利元康 もうり もとやす (1560~1601) 毛利家
 毛利元就の八男。兄・元春に従い、主に山陰地方で活躍した。毛利家が豊臣秀吉に臣従したのちは文禄・慶長の役に参加。文禄の役では碧帝館の戦いに参加して武功を挙げた。関ヶ原の戦いでは伏見城の戦いに参加。落城後は本戦に参加する予定だったが、大津城の京極高次が東軍に寝返ったため、立花宗茂らと共に大津城を攻めた。大筒を駆使して大津城を落城させたが、落城当日に関ヶ原で石田三成が敗北したため、本戦には参加できなかった。戦後、毛利家が減封されるなか、7千7百石を得た。


相合元網 あいおう もとつな (?~1524) 毛利家
 毛利弘元の三男。元就の異母弟。武勇に秀でた武将と伝わる。有田中井出の戦いの勝利に貢献し、元就との仲も良好だったといわれるが、幸松丸(興元の子)の死後、尼子経久の後ろ盾を得て元就と家督を争い殺害された。この時、毛利家は尼子家の傘下であったが、これをきっかけに、元就は大内家に鞍替えする決心をしたといわれる。


赤川元保 あかがわ もとやす (?~1567) 毛利家
 毛利隆元の側近。元就が隠居して隆元に家督を譲ると、五奉行のひとりとなり筆頭をつとめた。同じ五奉行で元就派の児玉就忠や桂元忠とは度々対立していたという。隆元が和智誠春の饗応を受けた直後に急死すると、元就から謀略を疑われ切腹に追い込まれた。しかし、のちに饗応を受けることに反対していたことが分かり、元就は深く後悔したという。


安国寺恵瓊 あんこくじ えけい (1539~1600) 毛利家
 毛利家の外交増。安芸の旧守護・安芸武田家の出身。毛利元就に安芸武田家が滅ぼされると、脱出して出家し、京都東福寺に入って竺雲恵心の弟子になった。その後、恵心が毛利家と親交があったことから毛利家の外交増となり、豊後大友家との和睦交渉で活躍した。羽柴(豊臣)秀吉によって備中高松城が水攻めにされると、毛利家の交渉役として秀吉との和睦に尽力。その時から秀吉に気に入られ、のちに僧でありながら6万石を拝領した。関ヶ原の戦いでは、石田三成と謀って毛利輝元を西軍の総大将に据えるが、出陣した本戦では吉川広家の妨害にあって軍を動かすことなく敗北し、戦後捕らえられて、三成、小西行長と共に六条河原で処刑された。


井上元兼 いのうえ もとかね (1486~1550) 毛利家
 毛利家臣。安芸井上家は、毛利家と対等の力、特に経済力を持っていた国人であったため、毛利弘元(元就の父)の代に家臣になったといえ、一目置かれる存在だった。元兼は、その経済力で元就を支えたが、次第に驕るようになり、1550年、それを危惧した元就によって一族30人余りと共に粛清された。一族の中には元就に忠誠を尽くしていた者もおり、その者たちは粛清されなかったため、一族は滅んではいない。


桂広澄 かつら ひろずみ (?~1524) 毛利家
 毛利家臣。毛利宗家の執政をつとめた坂家の出身。分家して桂姓を名乗った。元就が家督を継いだ翌年、一族の坂広秀が元就の異母弟・相合元網の擁立を画策する。計画は実行前に元就に知れ、元網、広秀共に誅殺されることで解決したが、一族から謀反人を出した責任を負って自害した。子に厳島の戦いで活躍した元澄、五奉行のひとりとなった元忠がいる。


桂元澄 かつら もとずみ (1500~1569) 毛利家
 毛利家臣。広澄の子。桂家は、毛利宗家の執政をつとめた坂家の分家にあたる。元就が毛利家を継いだ翌年、一族の坂広秀が元就の異母弟・相合元網を擁立して謀反を起こそうとした責を負って父と共に自害しようとするが、元就に説得され忠誠を誓った。厳島の戦いでは陶晴賢(隆房)に内応するふりをして油断を誘い、戦略の要である陶軍を厳島に渡らせる大功を挙げた。元就が長男・隆元に家督を譲った後も、元就の側近として仕えた。


吉川経家 きっかわ つねいえ (1547~1581) 毛利家
 毛利家臣。石見吉川家の当主。文武に優れた武将と伝わる。鳥取城主・山名豊国を追放した山名家臣・森下通与、中村春続の要請を受けて鳥取城に入り、織田家の重臣で中国方面司令官・羽柴(豊臣)秀吉と戦った。大軍の秀吉軍を相手に籠城策をとるが、秀吉の策略によって城内の食糧が売り払われており、2ヶ月後には飢餓状態に陥る。それでも4ヶ月持ちこたえたが、城内で人肉まで食す状態になると、さすがに観念し、自身の切腹と城兵の助命を条件に降伏を願い出た。秀吉は森下、中村両名のみの切腹で経家の罪を問わなかったが、それをよしとせず、責任をとって自害した。

<辞世の句>
 武士の 取り伝えたる 梓弓 かえるやもとの 栖なるらん



熊谷信直 くまがい のぶなお (1507~1593) 毛利家

 安芸の旧守護・安芸武田家の家臣。父・元直が、有田中井手の戦い毛利元就と戦い討死したため、毛利家とは敵対していたが、のちに所領問題や安芸武田家当主・光和の正室となった妹への冷遇などから毛利家と連携するようになる。大内義隆に従って参戦した月山富田城攻めの敗北後、娘が元就の次男・元春に嫁いだことをきっかけに毛利家一門衆の扱いを受け、その後は吉川家の主力として厳島の戦いや尼子家との戦いで活躍した。


国司元相 くにし もとすけ (1493~1592) 毛利家
 毛利家臣。五奉行のひとり。元就の嫡男・隆元の傅役をつとめた。吉田郡山城の戦い第一次・月山富田城の戦いでの撤退戦、厳島の戦いなどで活躍した。1560年には、正親町天皇の即位料調進の使者として上洛。その際、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見し、槍の巧者に与えられる「槍の鈴」の免許を与えられた。1567年頃に家督と五奉行の職を子・元武に譲るが、92年まで生き、100歳で亡くなった。


口羽通良 くちば みちよし (1513~1582) 毛利家
 毛利家臣。志道広良の次男。石見口羽を本拠としたから口羽姓を名乗った。父・広良の死後、1557年頃から重用され始め、吉川元春に従って山陰方面の攻略を担当、石見銀山の掌握にも貢献した。元就死後は、吉川元春、小早川隆景福原貞俊らと共に「毛利四人衆」のひとりとして、名家老と謳われた行政手腕を発揮し若き輝元を支えた。


児玉就忠 こだま なりただ (1507~1562) 毛利家
 毛利家臣。毛利元就の側近で五奉行のひとり。元就に「温厚で人当たりがよく、行政手腕に優れている」と評されたが、戦は苦手だったと伝わる。元就が長男・隆元に家督を譲ると、五奉行のひとりとなり、元就と隆元の調停役をつとめた。元就派であったため、同じ五奉行で隆元派の赤川元保国司元相とは不仲だったといわれる。孫娘が輝元の側室となり、長州藩初代藩主・秀就を産んでいる。


児玉就方 こだま なりかた (1513~1586) 毛利家
 毛利家臣。就忠の弟。行政手腕に優れた兄と異なり武勇に優れた。毛利元就の側近としてだけではなく、毛利家直属の川内水軍衆の将として、厳島の戦いや九州・大友家との門司城の戦いなどで活躍した。毛利家が羽柴(豊臣)秀吉に臣従したのちも水軍の将として、1585年の紀州攻めに参加している。


児玉就英 こだま なりひで (1544~1596) 毛利家
 毛利家臣。就方の子。父・就方と同様、水軍の将として活躍した。1576年の第一次・木津川口の戦いでは、毛利水軍の将として、乃美宗勝村上元吉村上吉充らと共に参戦し、焙烙玉(現代でいう手榴弾)を駆使して織田水軍を壊滅させた。父の死後、家督を継いで草津城主となるが、毛利輝元が広島城に居城を移すと、草津が毛利家の直轄地候補となったため、渋々移封に応じた。


坂広秀 さか ひろひで (?~1524) 毛利家
 毛利家臣。坂家は毛利家の庶流で代々執政をつとめてきたが、元就の兄・興元の時代には坂家の庶流であった志道広良が執政として重用され、弱体化していた。元就が家督を継ぐと、元就は広秀の父を方針の違いから粛清した経緯があり、元就の異母弟・相合元網を擁立して謀反を起こそうと画策する。だが露見して自害に追い込まれた。


宍戸隆家 ししど たかいえ (1518~1592) 毛利家
 安芸の国人。はじめ毛利家とは敵対していたが、元就の娘を娶って和解し、毛利一門となった。一門となってからは毛利家のために一途に働き、毛利家の勢力拡大の過程における戦いに吉川元春小早川隆景と共に多く参戦し、その信頼から元就、隆元から元春、隆景と同格の扱いを受けた。毛利家との繋がりはたいへん強く、二女・春木大方は元春の嫡男・元長の正室、三女・南の大方は輝元の正室になっており、江戸時代を通じて宍戸家は萩藩(長州藩)の一門筆頭とされた。


志道広良 しじ ひろよし (1467~1557) 毛利家
 毛利家臣。毛利家の執政をつとめた坂家の一門。元就の兄・興元の代から執政として重用された。元就の将器を早くから見抜いており、興元と幸松丸(興元の子)が亡くなって家督争いが起こると、誰よりも強く元就を推した。元就が家督を継いだ後も引き続き重用され、元就の子・隆元の教育係をつとめた。隆元に「君は船、臣は水」と主従関係を大切にすることを語ったといわれる。


清水宗治 しみず むねはる (1537~1582) 毛利家
 毛利家臣。備中高松城主。はじめは、備中に勢力を誇った三村家に仕えたが、三村家が毛利家と敵対すると毛利家に味方した。文武に秀でた武将で、毛利家に仕えてからは忠誠心厚く励んだため、小早川隆景をはじめ毛利家首脳陣から多大な信頼を得ていたという。隆景のもと、主に山陽方面を転戦して武功を挙げ、毛利家の中国地方平定に大きく貢献した。羽柴(豊臣)秀吉の中国方面軍が攻めてくると、秀吉の備中一国を与えるという誘いを断り、備中高松城に籠って抵抗した。しかし、水攻めにあって苦戦する。その中で講和の話が進み、秀吉は宗治の切腹を条件に城兵の命を助ける旨を伝えてきた。小早川隆景は宗治の切腹を拒んだが、宗治自身がこれを納得したため、最後は船上で切腹した。

<辞世の句>
 浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して



乃美宗勝 のみ むねかつ (1527~1592) 毛利家

 沼田小早川家の庶流の出身。小早川家の当主となった毛利元就の三男・隆景に仕えた。厳島の戦いでは村上家と血縁であったことから村上水軍を味方に引き入れるのに一役買い、自身も水軍を率いて勝利に貢献した。その後も小早川水軍の主力として活躍。第一次・木津川口の戦いでは総大将として毛利、村上水軍を従え織田水軍を壊滅させた。しかし、第二次では九鬼嘉隆率いる織田水軍の鉄甲船の前に敗北している。毛利家が豊臣家に臣従したのちは、文禄の役(朝鮮出兵)に参加したが、現地で病を得てしまい、帰国後まもなくして亡くなった。


(11代)福原貞俊 ふくはら さだとし (1512?~1593) 毛利家
 安芸福原家11代当主。祖父で9代当主と同じ貞俊を名乗り、伯祖母(おおおば・祖父の姉)が毛利元就の母にあたる。誠実な人柄で若い頃から各地を転戦して武功を挙げたため、元就に重用され、厳島の戦い後の防長経略(大内家との戦い)では、大内義長を自害に追込み、大内家を滅亡させるのに貢献した。その後も小早川隆景に従って、山陽方面の攻略を担当。元就死後は、「毛利四人衆」のひとりとして輝元を支えた。


(8代)福原広俊 ふくはら ひろとし (?~?) 毛利家
 安芸福原家8代当主。毛利元就の外祖父(元就の母の父)。元就の祖父・豊元、父・弘元に重用され、娘が弘元の正室となって興元、元就を産んだことで、毛利家中における福原家の地位を確立した。歴代福原家の当主には「広俊」を名乗ったものが8代、10代、13代、15代と4人いる。ちなみに、毛利輝元を支え、長州藩の礎を築くのに貢献した広俊は13代である。


堀立直正 ほたて なおまさ (?~?) 毛利家
 安芸佐東川(太田川)の河口、堀立を本拠地とした商人。商人でありながら独自の海上戦力も保持していたという。1541年に安芸武田家が滅ぶと毛利家に属し、厳島の戦い、防長経略では調略で活躍した。大内家滅亡後は毛利領最大の要港、赤間関の代官となり、時には私財を投じて城の改修や兵糧を調達するなど、毛利家を経済面で支えた。


村上武吉 むらかみ たけよし (1533?~1604) 毛利家
 能島村上水軍の頭領。宣教師ルイス・フロイスに「日本最大の海賊」と評された。厳島の戦いでは毛利元就に協力して勝利に貢献したといわれる。毛利家と組んで瀬戸内に一大勢力を築いたが、独立傾向が強く、豊後の大友宗麟と組んで反毛利の姿勢をとることもあった。1575年頃には再び親毛利の姿勢をとり、1576年の第一次・木津川口の戦いでは嫡男・元吉を毛利方の水軍として送り、織田水軍に大勝した。豊臣秀吉による海賊停止令後は、小早川隆景に従う。関ヶ原の戦い後、江戸幕府の制海権掌握によって村上水軍は消滅。以後、村上家は毛利家臣として存続した。武吉が著したといわれる「村上舟戦要法」は、日露戦争の日本海海戦で、連合艦隊を大勝利に導いた参謀・秋山真之が作戦立案の参考にしたといわれる。


村上元吉 むらかみ もとよし (1553~1600) 毛利家
 能島村上水軍の頭領。武吉の子。1576年の第一次・木津川口の戦いでは、父に代わって出陣し、毛利水軍の一翼を担って織田水軍を壊滅させた。豊臣秀吉による海賊停止令後は、父と共に小早川隆景に従い、朝鮮出兵で将兵の輸送などに協力している。関ヶ原の戦いで、伊予松前城を攻めたが、加藤嘉明の留守を預かっていた佃十成の夜襲にあい討死した。


村上吉充 むらかみ よしみつ (?~?) 毛利家
 因島村上水軍の頭領。父の代から親毛利の立場をとり、厳島の戦いでも水軍を派遣して勝利に貢献した。その後も毛利家、小早川家に従い、防長経略では関門海峡を封鎖するなど大友家の援軍を阻止して毛利家の中国地方制覇に尽力、1576年の第一次・木津川口の戦いでも織田水軍の壊滅に一役買った。関ヶ原の戦い後、毛利家が大減封となり、家督を譲っていた元充には1800石しか与えられなかったため、因島に戻り同地で没した。


渡辺勝 わたなべ すぐる (?~1524) 毛利家
 毛利家臣。源頼光に仕えた頼光四天王の筆頭・渡辺綱の後裔という。毛利幸松丸(興元の子)の死後、元就の家督相続の起請文に一度は署名するが、のちに尼子経久の後ろ盾を得て、坂広秀と共に元就の異母弟・相合元網を擁立を画策した。しかし、計画は事前に元就の知るところとなり、先手を打たれて自身も含めた一族のほとんどが謀殺された。息子の通は、乳母と共に難を逃れ、備後の国人・山内直通に保護された。


渡辺通 わたなべ かよう (1511?~1543) 毛利家
 毛利家臣。の子。父・勝が毛利元就の異母弟・相合元網の擁立を謀った事で殺害されると、備後の国人・山内直通の元に逃れた。直通が元就と講和を結ぶと帰参を許され、吉田郡山城の戦いなどで活躍したが、大内義隆に従って元就と共に参加した第一次月山富田城攻めの撤退戦で、殿(しんがり)をつとめた元就の身代わりとなって討死した。無事帰国を果たした元就は通に深く感謝し、以後、渡辺家は重用された。